◆Dummy◆
男は嘆き続ける。
世の中―――いや、人間に対して―――それとも神に対してか。
「なぜ、私のような人間をお創りになったのですか?」

きちんと整頓された室内。机や棚の上にはほこり一つない。ガラス窓にはガラス自体が入っていないのかと錯覚させるほど透明なガラス。そして、そのガラスを通り抜けて射し込むのは透明な冬の光だった。
「本当に…すまない。」
男は冷たい声で向かいのソファーに座るうつくしい娘にそう告げた。何かに絶望し、落胆しきったその声は娘の胸を残酷に貫く。
「なぜ…?どうしてなの?ロシャス。どうして私ではいけないの?」
娘は大きな瞳に涙をにじませたが、ロシャスの目にはすでに娘の姿は映っていなかった。
「確かに君は普通の娘達に比べれば格段にうつくしい。その茶色の巻き毛も、深海の色を映した藍色の瞳も、まるで君自身が芸術品のようだ。もちろん優れているところは、それだけじゃない。」
ロシャスは優雅にティーカップを口に運ぶと、ラズベリーの香りたつ紅茶を一口含み喉を潤した。
「…だったら、私の何がいけないというの?貴方のためになら私…どんな女性にだってなれるわ!貴方の望むままの、理想の女性に…。」
娘はそのうつくしい顔に、媚びるようなすがるような笑みを浮かべた。それはどんな男性でも魅了してしまうほどのとろけるような笑みだが、ロシャスにはひどく醜いものに見えたようだった。
「いや、違うんだ。」
彼女の言葉を遮ると、ロシャスは少し困ったような微笑を浮かべる。その笑みもまた、この世の女性達を全て虜にしてしまうのではないかと言うほど甘い蜜を含んんでいた。
「どうか、お願い!考え直して。愛しているのよ…それに、私に恥をかかせるような事は許されない。貴方だって、解っているはずだわ。」
しばらくの間、彼にとってはどうでもいい会話が続き、娘はその言葉を残して、部屋を去っていった。
ひとり部屋に残され、冷めた紅茶を見つめながらロシャスはこみ上げて来る笑いを必死でかみ殺していた。
―――誰が、君のような娘と結婚などするものか。
しかし、必死にこらえていた笑い声がかすかに漏れる。
「くく…く…。その程度の…美貌ともいえない君が、ただ親同士が決めた相手だというくだらない理由で、この世で最もうつくしい私と結婚したいだって?」
最後には我慢ができなくなったのか、ロシャスはソファの上に寝転がり、身体をくの字に曲げて大笑いをする。
「ははは…あーはははは!面白い冗談だ。」
そしてしばらく笑い続けた後、ゆっくりと身体を起こすと狂気をふくんだ笑い声がぴたりと止んだ。
―――面白い冗談だが、私が最も嫌いな冗談だ。

ロシャス・イル・ディナール。彼の名は、世界中に知られていた。世界的資産家の息子にして、おそろしいほどの美貌の持ち主。まるで神話にでも登場する神そのものなのではないかと思われるほどの、高貴な美を生まれながらにして持つ男だった。その月の光を編んだような淡い金色の髪。新緑のもえるようなパロット・グリーンの瞳は、まるで生きた宝石だと人々は言う。
そして、女性さえも嫉妬するなめらかな白い肌。彼の存在そのものが美と言っても過言ではなかった。
やがて社交界への扉を開けた彼のうつくしさに、ひれ伏さない者は今まで一人として存在しなかったほどである。
客間から自室にもどったロシャスは、ぼんやりと一枚の絵画を見つめている。その絵画に描かれた人物である今は亡き彼の母も、美の女神そのもののようなうつくしい女性だった。
―――母さま…私はなぜ、こんなにもうつくしく生まれて来てしまったのでしょう。これは神が私に与えた罰なのでしょうか…もし私が妻にと望む女性がこの世にいたとしたなら、それは唯一貴女だけだ。
もえるようなパロット・グリーンの瞳はじっと絵画の中の黒い瞳を見つめ続けている。それはまるで、恋い焦がれるように淡く切ない視線だった。
―――貴女よりも私よりもうつくしい者など、この世に存在しない。
ロシャスはそっと目を閉じて、一度も逢ったことのない母の温もりを、母の声を想像する。儚い幻想の中で、決して交わる事のない時間を歪めうつくしい男はただ、嘆き続ける。

ある晴れた日の夕方、自室に戻ったロシャスは、普段見かけることのない簡素だけれども、大きく存在感のある姿見に目をとめた。
「ほう、なかなか良い鏡ではないか。」
そして機嫌良くメイドに声をかける。
「もちろんで御座います。ロシャス様が神々しいお姿を映される鏡ですもの。滅多な物はこのお部屋に置く事はできませんわ。」
年配のメイドは、慣れた手つきでアンティークの鏡を拭き上げている。今まで使っていた鏡に細かい傷がついてしまっていたのをめざとい彼女が見つけ、今日その代わりにと、この鏡を購入して来たらしい。ロシャスの好みを知り尽くしている彼女ならではの良い選定だった。
古い物だというのに表面には傷一つなく、それどころか鏡の面そのものが、淡く輝いているようにさえ見える。もちろん、くもりやくすみなども一切見あたらない。彼の姿を映すには申し分がない品物だった。
メイドが部屋を後にすると、ロシャスは灯りもつけずに、黒い牛革のソファに腰を降ろして、ぼんやりとその鏡を眺めていた。
陽は落ち、室内には朱から藍の混じり合った光が満ちてきていた。そして、その一部分だけをくりぬいたような淡い桜色の満月が、ゆっくりと昇りはじめている。
ふと、何かに呼ばれた気がして、ロシャスはソファから立ち上がるとゆっくりとその鏡の前に立ってみる。薄暗い光のなかに、見慣れた自分自身の姿がぼんやりと映し出された。
―――うつくしい。
彼はいつも通り自らを賛美する。薄闇の中でさえも際だつその美貌を褒めたたえる。
『…ほんとうに。』
「!?」
いつもなら決して答える者のいないその言葉に、澄んだ美声が答えた。男性とも女性ともつかないその声は違和感もなく、彼の耳に滑り込んでくる。
「…誰だ?」
表情を険しくし、闇に沈みかけている室内を見渡すが、彼以外に人影があるはずがない。メイドが部屋を後にしてからは誰も入って来てはいないのだから。
『わたしは、わたし。』
再びその声がロシャスの耳に届く。ほんの僅かに笑いを含んだ声に、はっと目の前の鏡に視線を移した。
「……!!」
それは、ロシャスに淡く微笑みかけた。ゆっくりと高くなりはじめた眩いばかりの月光に浮かび上がったもう一人の彼。鏡に映った自分が、こちらに微笑みかけていたのだった。
その夜からすべてが始まったのだ。

ロシャスは細く繊細な指で、月光を弾く銀盤をそっと撫でた。ひんやりとした感触。けれどもその下になぜか何かの暖かみを感じるような気がする。
「君に…満月の夜にしか逢えないのが辛い。」
『わたしもだ…きみに逢えないのが辛い。』
鏡に映ったもう一人のロシャスは、実物の彼の手にそっと自らの手を合わせた。その切なげな眼差しに見つめられた者は更に深く彼を愛さずにはいられないだろう。
「君に直に触れてみたい。」
『わたしも、きみに触れてみたい。』
いくら温もりを求めても、その手に伝わるのはやはひんやりとした感触だけ。
―――何ともどかしいのだろう。
彼もまた深い哀しみに彩られた表情をそのうつくしい顔に浮かべる。今まで欲しいと思った物はすべて手に入れてきた。彼の神々しいまでのうつくしさの前に、人々は魅入られ、そしてひざまずいた。
ロシャスは生まれてはじめて、心の底から愛せる者を見つけたのだけれども、それは決して触れる事のできない場所に存在してしまっていたのだ。
けれどもその深い愛情は徐々に彼を変化させている。今まですがるようにしてきた母の肖像画さえも、もう見つめる事はなくなって久しいのだ。
ただ、満月の夜を待ちわびて、自分と何一つ変わることのない、もう一人の自分との時間だけを深く、深く追い求め続けていた。
―――これは許されざる罪だ。
彼は自分自身を愛してしまった。他の誰でもない。この世にたった一人しかいない自分。そして、鏡に映るもう一人の自分。けれどその存在も彼自信である事に変わりはないと、そう思っていた。
『きみは、罪など犯していない。』
ふわりと、鏡に映るもう一人の自分が微笑んだ。ロシャスと同じパロット・グリーンの瞳を細め、うつくしく安らかな笑みを浮かべる。その優しい笑みに癒されながらロシャスは愛おしい銀盤をゆっくりと撫でた。
「…愛している。」
『もちろん、わたしもだ。』
鏡の中の彼はくちづけを求めるようにそっと瞳を閉じた。月光に満たされた鏡の中に浮かぶ、うつくしい自分。うっすらと開かれた薄いくちびるにロシャスはためらう事なく、優しいくちづけを落とす。
すると、冷たく透き通った感覚に彼の意識は徐々に薄らいでいった。それと同時に、鏡に寄り添っていたロシャスの身体はずるずると滑り落ちていく。
―――君を、愛している。
しかし、滑りゆくその身体を細く白い何かが抱き留めた。そして、力強く抱き留められたロシャスの身体は、そのままじわじわと銀色の光を弾く鏡の中へと吸い込まれていく。
ゆっくりと、ゆっくりと―――

ほんの僅かに波打つ銀盤。そこにロシャスの姿を見つける事はできなかった。

夜更けの闇は、数え切れないほど訪れる朝によって薄まり、その濃紺の色を徐々に蒼白い色へと変えていく。ロシャスの部屋は静まりかえったまま、ただ冬の冷たい冷気に満たされていた。
やがて、姿を消していた太陽が再び昇りはじめる。
目を覆いたくなるほどの、強烈な光を放ちながら。
金色の光は徐々に、闇を浸食するように、ロシャスの部屋にも射し込んでくる。蒼白くうずくまる明け方の色さえも自らその姿を消し、光に満たされていく。
そしてやっと、待ちわびていた瞬間が訪れた。細長い光の帯がひとすじ、沈黙している鏡にその手を伸ばした。そのか細い光はあっという間に盤面を金色の光に満たし、淡い輝きを放ちはじめる。
再び、眩い光に満たされた銀盤は激しく波打ち、その平坦な表面が、人の形をかたどっていく。
「…やっと。」
ゆっくりと盛り上がっていく盤面から微かに声が聞こえる。
「やっと、外に出ることができたよ。」
男性とも女性ともつかない繊細な美声が、主を失った室内に響く。
「ロシャス、きみのお陰だ。」
そこには一人のうつくしい青年が立っていた。
金色の光をその白い肌に受け止めながら、新緑のもえるようなパロット・グリーンの瞳でじっと鏡を見つめている。
その視線の先には鏡に映ったもう一人の彼。
「きみは、本当に綺麗だ。この淡い金髪も、宝石のような瞳も、とても気に入っているよ。だけれど、昔のわたしの方が、もっとうつくしかった。」
彼はそう言うと、そのうつくしい顔に、冷酷な笑みを浮かべる。この世のものとは思えないほどの、冷たく温度を感じさせない笑みを。

「本当に宜しいのですか?」
年配のメイドはひどく困惑した表情で彼を見つめた。
「申し訳ないけれど…やはりアンティークよりも、新しいものを注文してもらえるかな?」
にっこりと微笑んだ彼に、メイドは違和感を覚えながらも魅了される。それは、今まで彼と共に生きてきた彼女が初めてみる優しさに満ちた微笑みだったからだ。
「…かしこまりました。」
深々とお辞儀をすると、自室を後にしようとしている彼の背中をじっと見つめた。そこには何も変わらない、いつも通りのロシャスの背中が存在している。
「ああ…それから。」
笑顔を絶やさないまま、彼はこちらをふり返った。
「どうか、なさいましたか?」
「ううん、大したことじゃないんだけれど、その鏡―――もう二度と使われないように、粉々に割って捨てておいてもらってね。」
爽やかな声と、軽い足音を残しながら、彼は自室を後にした。




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憧れでもある「月夜の訪問者」様のじゅう。様から相互記念として頂きました…!
ダークなものをvとお願いしたところこんなに素敵に書いて頂いて、あわわ。
特に最後の入れ替わってしまう展開にはあんぐり。文章の魅せ方に惚れ惚れ。
じゅう。様!本当にありがとうございましたv